愚かである権利
少し前のこととなりますが、6月7日の法制審民法部会で消費者支援機構福岡から来た黒木和彰参考人(弁護士)が述べた次の言葉がずっと頭に引っかかっています。
情報力や交渉力の格差,換言いたしますと,契約では一定の場合,契約内容を精緻に検討しないでも自然人は契約することができるということ,もっと言うと,愚かである権利を真正面から認めるべき
従来の消費者法の考え方としては、格差によって不利益を被った消費者を救済する思考であったのを、「愚かである権利」と、不利益が生ずる前に消費者に実質的平等を与えるべきだといういわばaffirmative actionを提唱しているということが、新しい主張であると同時に、極めて違和感を持たざるを得ない理由になっていると思われます。
権利があれば義務があります。事業者対消費者の場合、愚かな消費者も賢い消費者も同等に扱う義務を事業者が負うべきだ、ということになります。しかし賢くても愚かな場合と同じ結論にしかなりませんから、消費者を愚かなものとして扱う義務があるということと同じとなります。更に、消費者対消費者の場合、双方が愚かである権利を行使できるとすれば、誰が賢い結論を誘導するのでしょうか。
どうも、この種の議論の場合、人民に正しい結論を導く義務を負っている<前衛>があって、その指導に従うことの反面として人民は愚かであってよいという論理が見え隠れしているような気がしてなりません。ここでいう<前衛>とは、現在の我が国の場合、無謬である弁護士や役人の既得権益拡大と結びついて、負担を事業者に押しつけるという形で現れているように思われるのであります。歴史上、<前衛>の名の下、既得権益を貪り、人民を搾取しているという例は絶えません。また、しかしながら、<前衛>の正統性の根拠は人民にあるということであるとすれば、<前衛>としては正面から自らの正統性の源泉である人民が愚かであると宣言することは、自らの否定になりかねないという危うさも他方で持っています。
この辺りの閉塞感をうまく批判できればよいと思っているのですが、なかなかうまくまとめられません。
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