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September 2011

09/21/2011

消費者集合訴訟制度

経営法友会の月例会で西村あさひの武井弁護士の講演を聴いてきました。
消費者集合訴訟の議論の行方については今までフォローしていなかったのですが、武井弁護士の危機感はかなりのもので、今まで消費者サイドと無邪気な学者が「化け物」を生み出しつつあるので、是非企業サイドからも意見を出していただき、適正な制度を定めていくべきだ、ということを力説されていました。

自分の不明を羞じますが、

・以前あったA案からD案のうち、ほぼA案で議論が集約されつつある。

・A案(二段階オプトイン型)とは、第一段階で適格消費者団体が法律上の争点のみの判決を取得し、これに適格消費者団体が勝訴した場合に、第二段階での各消費者が起こす訴訟に既判力を与えるというもので、諸外国ではブラジルでしか導入されていない(これをパイオニアとみるか他国ではほとんど導入していない悪制度とみるかは論者によりけりですが。)。

・A案の第一段階ではここの消費者が顔出しをしていないばかりでなく、被害者消費者からのここの授権がされないで適格消費者団体が訴訟を起こすので、これがアメリカのクラスアクションと同様、大きな弊害をもたらしうる。

・アメリカのクラスアクションも立案者はあまり深く考えず、裁判所が適正な運用をしてくれることを期待して導入されたが、一旦導入されると、個々の被害者からの授権がないので、本来の適用範囲を超えて濫用されだした。ところが一旦導入された制度にはそれに利害関係が発生するので、もはや制御ができなくなってしまった(まさにターミネータ、ジュラシックパークの世界!)。

・本来訴訟とは、被害を受けたと認識する人がそれを救済されるために相手方に対して請求をしていくところ、被害者からの授権を受けない者が訴訟を起こしうるということは、被害者感情のない者も含めた者も潜在的原告として巻き込むこととなる。そして、第一段階で勝訴した後でここの消費者が参加する第二段階では、もはや被害者感情のある人とない人とを区別することは現実に不可能。その結果、特殊な状況でしか発生しない損害が全ての場合に発生したとした損害を事業者が払う羽目になる(含み損の強制実現!)。

・逆に第一段階で適格消費者団体が敗訴しても既判力は個々の消費者に及ばない。さらに、手数料が13,000円であることと相まって、訴訟が多発することは抑制されない。

・第一段階では被告事業者は一体どれだけの損害が全体として発生するか予測が困難であり、また、原告適格消費者団体も敢えて妥協するインセンティブがないため、和解することはまずない。

・裁判所としても、通常訴訟の場合、故意過失、相当因果関係、損害額、過失相殺の4つの概念を駆使して妥当な結論を導いていたのに対し、故意過失という1枚のカードのみで結論を出さないと行けないので、相当の負担になり得る。

・本来であれば、集合訴訟は通常訴訟の補完であるべきだから、学納金返還訴訟のように、救済をされるべき潜在的原告の規模が明確であり、個々の被害者の損害額が容易に算定されるような類型に限定されるべきだが、議論の中で、制度の適用の幅を狭めるべきでないとして、個人情報漏洩も類型に入れられている。個人情報漏洩では損害は慰謝料であるので、「被害感情のない人に対する慰謝料」という損害が導入されてしまう。その結果、日本法の実体法上の実損賠償の原則が敗れていくことが懸念される。

・これほど大きな法改正なのにパブリックコメントがなされないのはおかしいということもあるが、消費者庁も実質的に9月10月をパブリックコメント期間ととらえ、各方面の意見を聞きたがっている。弊害の少ない制度とするために、事業者側も是非意見を言って欲しい。

・特に、集合訴訟の射程としてどのような事案が対象となるのかという点について積極的に意見を言う必要がある。また、今までの約款を抜本的に見直す必要もある。

というような熱い講演でした。

今までの消費者委員会での議論は
http://www.cao.go.jp/consumer/history/01/kabusoshiki/shudan/
に書かれているのでフォローしていきたいと思います。
また、経営法友会も意見発表をしていますので、こちらも検討していこうと思います。
http://www.keieihoyukai.jp/opinion/opinion72.pdf

09/01/2011

コンプライアンス異論

 「Googleの脳みそ」を読んでいて刺激されたので、予て考えていたことを少し。
 一見誰もが賛成をせざるを得ない当たり前のことを声高く主張しているときは、その背後にあるイデオロギーを疑え、ということを、自分は高校生のときに吉本隆明の「『反核』異論」という本を読んで学んだ。いわゆる「コンプライアンス」という日本語が、英語の本来の意味を離れて、道徳を遵守せよ、とか、最早何かを遵守するのではダメで社会的要請に応えよと、一見当然すぎる主張をしているのを見たときに、吉本のこの本を突然思い出した。「コンプライアンス」を声高に主張している人は、善意なのか悪意なのかは別として、何かを隠しているに違いない。
 少なくともいえることは、社会的な要請なり道徳が単一であることを、これらの論者は当然に前提としている、ということだ。また、ここで要請される価値観は、自分が主体的に考えた結論ではなく、一義的には自分の外にある規範を内在化せよ、というもののように思われる。これらの考え方が、社会の矛盾に対して批判せず、盲従せよという価値観に変わることは、そう遠くない。
 社会が複数の価値観で分裂しているときや、自分が主体的に考えた価値観が社会の価値観と相克するときには、「コンプライアンス」上どうすべきか、ということに対しては、結論が出せないのである。「債務者が債務を弁済したくないと言っています。無理に回収するのはコンプライアンス上よくないのではないでしょうか。」などと言う輩が居たが、これなどはその典型であって、いやがる債務者から法で許された限度で回収することは、債権者がその株主に対する善管注意義務として当然行わなければならぬことであって、究極的には債権者の株主と債務者とのいずれの利益を取るべきか、という問題なのである。
 ということで、自分として今は、コンプライアンスリスクというのは、(消極的か積極的かは別として、自分が承認している)外在的な規範を遵守しているかということであり、リーガルリスクとは、自分が考えている意味とは異なって契約等が解釈されてしまうことと理解している。よく「コンプライアンスリスクは取れない」という人がいるが、規範をどう解釈するかは当然人によって異なるので、自分によって取れない「コンプライアンスリスク」を別の人が取っているということ自体は当然のことである。自らが主体的に規範を選択するということが、必要なのではないか。

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