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09/01/2011

コンプライアンス異論

 「Googleの脳みそ」を読んでいて刺激されたので、予て考えていたことを少し。
 一見誰もが賛成をせざるを得ない当たり前のことを声高く主張しているときは、その背後にあるイデオロギーを疑え、ということを、自分は高校生のときに吉本隆明の「『反核』異論」という本を読んで学んだ。いわゆる「コンプライアンス」という日本語が、英語の本来の意味を離れて、道徳を遵守せよ、とか、最早何かを遵守するのではダメで社会的要請に応えよと、一見当然すぎる主張をしているのを見たときに、吉本のこの本を突然思い出した。「コンプライアンス」を声高に主張している人は、善意なのか悪意なのかは別として、何かを隠しているに違いない。
 少なくともいえることは、社会的な要請なり道徳が単一であることを、これらの論者は当然に前提としている、ということだ。また、ここで要請される価値観は、自分が主体的に考えた結論ではなく、一義的には自分の外にある規範を内在化せよ、というもののように思われる。これらの考え方が、社会の矛盾に対して批判せず、盲従せよという価値観に変わることは、そう遠くない。
 社会が複数の価値観で分裂しているときや、自分が主体的に考えた価値観が社会の価値観と相克するときには、「コンプライアンス」上どうすべきか、ということに対しては、結論が出せないのである。「債務者が債務を弁済したくないと言っています。無理に回収するのはコンプライアンス上よくないのではないでしょうか。」などと言う輩が居たが、これなどはその典型であって、いやがる債務者から法で許された限度で回収することは、債権者がその株主に対する善管注意義務として当然行わなければならぬことであって、究極的には債権者の株主と債務者とのいずれの利益を取るべきか、という問題なのである。
 ということで、自分として今は、コンプライアンスリスクというのは、(消極的か積極的かは別として、自分が承認している)外在的な規範を遵守しているかということであり、リーガルリスクとは、自分が考えている意味とは異なって契約等が解釈されてしまうことと理解している。よく「コンプライアンスリスクは取れない」という人がいるが、規範をどう解釈するかは当然人によって異なるので、自分によって取れない「コンプライアンスリスク」を別の人が取っているということ自体は当然のことである。自らが主体的に規範を選択するということが、必要なのではないか。

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